CA商友会の歴史
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130年の歩み年表歴代後者岡本記念室について活躍する卒業生特別寄稿

130年の歩み年表

学校の出来事と商友会の出来事を表形式にしました。

歴代校舎

CAは開校時の大津橋校舎、南鍛治屋町校舎、布池町校舎、広池町校舎、仲ノ町校舎、芳野町校舎、旧自由ヶ丘校舎、
現自由ヶ丘校舎と8代もの校舎を経て今日にいたっています。

  • 大津橋校舎(開校時仮校舎1884 年~)大津橋校舎(開校時仮校舎1884 年~)
  • 南鍛治屋町校舎(1892年~)南鍛治屋町校舎(1892年~)
  • 大布池町校舎(1902年~)布池町校舎(1902年~)
  • 広池町校舎(1928年~)広池町校舎(1928年~)
  • 仲ノ町校舎(栄小学校と同居 1946年~)仲ノ町校舎(栄小学校と同居 1946年~)
  • 芳野町校舎(CA復活時 1953年~)芳野町校舎(CA復活時 1953年~)
  • 旧自由ヶ丘校舎(1955年~)
    旧自由ヶ丘校舎(1955年~)
  • 現自由ヶ丘校舎(1996年~)現自由ヶ丘校舎(1996年~)

岡本記念館について

1986年当時の岡本記念館

岡本記念館(現岡本記念室)の由来

岡本藤次郎氏(21回)のご逝去(1983年(昭和58年))により、ご子息の岡本藤太氏 より 教育のためにとの故人の強いご遺志を受け継ぎ、多額のご寄付が寄せられました。 当時、伝統校といわれる商業高校は、全国どこも同窓会の学校に対する支援、係わり合いが 深く、CAも同様でした。しかし、CAには他校にある同窓会活動の拠点「同窓会館」はなく、 その設立に奔走することとなりました。くしくも100周年を迎え(1984年(昭和59年)) その大成功は、同窓会の力を自他ともに認めるところとなり 教育委員会、学校側(当時佐 藤直二校長)のご尽力のもと、校舎に隣接した運動場側に 同窓会の拠り所としての「岡本 記念館・・同窓会館」が(1986年(昭和61年))に完成しました。

  • 岡本記念室は、CA正面玄関から
入ってすぐの位置にあります岡本記念室は、CA正面玄関から 入ってすぐの位置にあります
  • 会議用スペース岡本記念室内には会議用スペースがあり 常任幹事会や各種会合などに 使用されています。
  • 歴代商友会長の写真歴代商友会長の写真が飾られています。 一番右は市邨芳樹初代会長。
  • 明治時代の教科書やそろばん明治時代の教科書やそろばん、 茶釜をはじめ120年の歴史を刻む 貴重な物も保管されています。

会館内は
1. 過去の優勝杯、盾、優勝旗の陳列棚、商友会資料、物品の収容の部屋を兼ねた応接室。
2. 同窓会、クラス会に利用できる会議室(大きめの一教室分)
3. 洗面所、トイレ
そして1994年(平成6年)、新校舎建設のための校舎解体により、岡本記念館はおよそ8年間、CA生を見守り、同窓会生の拠り所としての役目を終わり惜しまれながらその姿を消すこととなりました。
しかし、1996年(平成8年)、校舎新築にともない、名古屋市への学校、商友会の強い要望により、「岡本記念館」の代替措置として現在校長室の右隣りに位置する 「岡本記念室」として復活し、母校CAおよびCA商友会に関わる会議など あらゆる場面で大変恩恵を受けています。

CA商友会のみなさん!岡本藤次郎先輩のご好意を十二分に心に留めて「CA商友会室・岡本記念室」を大いに活用し、同期会の幹事会、打ち合わせ会、コミュニケーションの場としてご利用ください。 なお、その際には学校への申し込みが必要となりますので予めご承知ください。

岡本藤次郎氏(21回)略歴
明治40年 CA卒業 昭和30年 (株)豊田自動車製作所 監査役
明治43年 三井物産(株)入社 昭和31年 トヨタ自動車工業(株)監査役
昭和 7年 日新通商(株)取締役社長 昭和34年 トヨタ自動車販売(株)監
昭和28年 東和不動産(株)取締役社長 昭和34年 豊田通商(株)取締役会長

岡本藤次郎先輩と、ともにCAを卒業された「販売の神様」といわれた神谷正太郎先輩(31回卒、トヨタ自動車販売社長)のお二人は、 今や自動車界の王者「世界のトヨタ」に、創業時から大きな力を発揮、すばらしい活躍、貢献をされました。

活躍する卒業生

この校風のもと、CAは明治時代から
地元名古屋はもとより日本や世界をリードする人材を輩出してきました。

  • 岡本 藤次郎氏 21回
    1907 年(明治40 年)卒業。
    東和不動産(株)社長、豊田通商(株)会長
    明治43年 三井物産(株)入社、 昭和7年 日新通商(株)取締 役社長、 昭和28年 東和不動産(株)取締役社長、 昭和30年  (株)豊田自動車製作所 監査役、昭和31年 トヨタ自動車工業(株) 監査役、昭和34年 トヨタ自動車販売(株)監査役、 昭和34年  豊田通商(株)取締役会長。昭和58年逝去の際、ご子息の藤太氏より、 多大なご寄付をいただき、CAに岡本記念館(現校舎の岡本記念室) を建立。現在、名古屋駅前のランドマークとして有名なミッドランドタ ワーがあるが、もとは豊田紡織工場跡を岡本氏が東和不動産発足時 に豊田ビルとして建てたのが発端である。
  • 中村 白葉
    1908 年(明治41 年)卒業。
    ロシア文学者。
    1890 年11 月23 日神戸市生まれ。本名・長三郎。名古屋商業学 校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)を出たのち、1912 年、 東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシヤ語科卒業。米川正 夫は一歳年下で在学中に知り合い、一緒に同人誌『露西亜文学』を 刊行しロシヤ文学の紹介を始める。卒業後、鉄道院に勤めるが文学 への志が強く、辞職、雑誌編集者となる。24 歳の時、新潮社にいた 投書仲間の加藤武雄より「罪と罰」の翻訳依頼を受け、1914 年、 それまで内田魯庵の英語からの重訳で読まれていたのを、初めてロシ ヤ語からの邦訳を刊行する。15 年、朝日新聞社に入るが、翌年、貿 易商野沢組のロシヤ部に二年間勤務。19 年、退職し、『アンナ・カレー ニナ』を翻訳、また22 年ころ、福岡日日新聞に自伝的小説「蜜蜂 の如く」を連載した。23 年の震災後、日本電報通信社文藝部に三 年半勤務するが辞職、以後ロシヤ文学の翻訳に生涯を捧げる。トル ストイ、チェーホフ、プーシキンの作品は、その大半を手がけた。『アンナ・カレーニナ』は何度も改訳をおこなった。
  • 神谷 正太郎 31回
    1917 年(大正6 年)卒業。
    トヨタ自動車販売(株)社長
    日本ゼネラルモーターズの販売広告部長であったが、1935 年に同窓 生の岡本藤次郎氏の紹介により、豊田喜一郎氏に請われて、豊田自 動織機に入社。豊田喜一郎氏の自動車国産化計画に販売面で参画し、 販売体制の基礎を構築。後に、トヨタ自動車販売株式会社取締役社 長に就任。トヨタの販売部門を統括し、内外の販売網を確立してトヨ タグループの基盤強化に貢献。現在のトヨタ自動車の販売網の基礎を 築いた。神谷正太郎氏は、” 販売の神様” とも呼ばれ、トヨタ車を販 売するに当たって打ち出した「一にユーザー、二にディーラー、三にメー カー」という販売理念、すなわち「トヨタ車の販売によって利益を受 ける順序は、まずお客様、次に販売店、そして最後にメーカーという 順であるべきで、この姿勢こそ、お客様とトヨタ販売店の信頼を得る 最良の手段であり、その事がトヨタに発展をもたらす」という考え方 は有名。
  • 城山 三郎 59回
    1945 年(昭和20 年)卒業。
    作家 
    経済小説のパイオニアとして、また伝記小説の作者として評価されて いる。城山氏は広池校舎の出身だが、ペンネームの" 城山" は、20 代のころにお住いになった、自由ヶ丘校舎近くにある千種区城山の地 名が由来。1940 年CA入学。陸上競技部、滑空部などに入るが、 当時は太平洋戦争に突入した時期であり、軍国主義の影響を受ける。 1945 年、愛知県立工業専門学校(現・名古屋工業大学)に入学。 徴兵猶予になるも海軍に志願入隊。海軍特別幹部候補生として終戦 を迎える。1946 年、東京商科大学(現・一橋大学)予科入学、 1952 年、東京商科大卒業。1952 年、岡崎市にあった愛知学芸大 学(現・愛知教育大学)商業科助手に就任。担当は景気論と経済原論。 後に同大学専任講師。この間金城学院大学にも出講。1955 年、一 橋大学経済研究所に出張。1957 年3 月、名古屋市千種区の城山 に転居、同12 月茅ヶ崎に再び転居。1958 年『輸出』で第4 回文 學界新人賞。1959 年『総会屋錦城』で第40 回直木賞。 1963 年 6 月に愛知学芸大を退職し、以後作家業に専念する。実在の人物を モデルにしたノンフィクション風の小説を数多く著す。2007 年3 月 逝去。
※出典 Wikipedia の内容を参考にさせていただきました。
特別寄稿 神谷正太郎氏とCA

2007/11/10掲載分

 今年、トヨタ自動車は売上、生産台数ともに世界最大の自動車メーカーになろうとしています。そのトヨタ自動車で創成期から関わり、営業の基盤を築いたのが、販売の神様と言われた神谷正太郎氏(31回生 1917年卒)でした。

 神谷正太郎氏は、CA時代、市邨芳樹校長の指導を直接受け、「世界わが市場」の校風に感銘し、商士としての志を抱きます。三井物産入社後には、アメリカシアトルに赴任しますが、そこで、同窓生の岡本藤次郎氏(21回生 1907年卒)と運命的な出会いがあります。トヨタ自動車の前身豊田自動織機に入社したのも、岡本藤次郎氏を訪ねた際、豊田喜一郎氏に懇願され請われたことがきっかけです。

 神谷氏とCAには大変深いつながりがありますが、「明日をみつめて <私の履歴書>」という神谷正太郎氏の自伝に、CA時代のことが触れられた記述がありましたのでご紹介します。

※以下「明日をみつめて <私の履歴書>」より引用

 子供のころから一度思い立ったことはやりとげないと気がすまぬ気性で、遊び友達の中では、がんばり屋のリーダー格であった。長じて、名古屋市立商業学校に学んだ。この学校は、コマーシャル・アカデミー(C・A)と呼ばれ、中部地方の商家の子弟に人気があった。わたくしも、養家が商家であったので、「実業を学べ」ということになったのである。

 C・A時代、わたくしは弁論部と剣道部に籍をおき、自分なりに心身を鍛えたが、特に記憶に残る武勇伝もなかったし、また、学業についても、とりたてて自慢するほど優秀でもなかった。いわば平凡な学生生活を過ごしたのである。が、しかし、ここでの学窓生活を通じて、国際感覚の芽を育てることができたのだから、やはり、母校は私の一生に大きな影響を与えた、と言わざるを得ない。

 わたくしが在学していた当時の校長市邨芳樹氏は、わが国のおかれた立場から、貿易立国の必要性を強く認識しておられた。そして、「世界わが市場」を校訓とし、それを大書して校舎に掲げていた。このころのわが国は、日清、日露両役の勝利を背景に、国威大いに発揚し、これに伴って通商の面でも著しい発展をとげつつあった。市邨校長は、そうした時代に学ぶ商学生の目を海外に向けさせ、日本が通商の面でも世界に雄飛する日を夢見ていたのである。

 そうしたことから、わたくしも、次第に海外に目を向けるようになり、物事を国際的に見る習慣が知らず知らずに身についていった。卒業にあたり、先生から士官学校進学を勧められて、気持ちを動かされたが、一人息子であったため家庭で反対され、これを断念した。また、商大進学の希望もあったが、これも家庭の事情で果たせず、結局、就職することになった。そして大正六年四月、校長推薦で三井物産に入社した。

(中略)

 三井物産に入社した直後、人事部から、「どういった部署を希望するか」、と聞かれたので、わたくしは臆面もなく、「ニューヨーク支店勤務を希望する」と答えた。わたくしは田舎出の新入社員であり、海外勤務の希望が直ちにかなえられるとはもちろん思っていなかったけれども、「世界わが市場」という母校の校訓があえてそれを言わせたのである。
 ところが、その希望は意外に早くかなえられることになった。入社翌年の大正七年春、突然シアトル出張所勤務を命ぜられたのである。
2008/7/27掲載分

「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカー」と「一に人物、二に技倆」

 トヨタ自動車では、「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカー」という販売理念を掲げています。
 1935年、トヨタ自動車の販売部門を任された神谷正太郎氏は、全国に販売店網を広げるに当たり、地元の有力資本による販売店を各地に整備していきましたが、その際に掲げたのがこの理念です。
 メーカーよりも販売店、販売店よりユーザーの利益を第一に考える。今となっては、顧客本位の理念を掲げるのはどこの企業も当たり前のことですが、日本は高度成長期まで、メーカー主導で商品を供給し、販売店や消費者は言われるがままに買うというのが常識でした。
 発足した当初からこのような理念を掲げていたのは、先見の明があったと言えます。
 トヨタ自動車が世界一の自動車メーカーになったのも、まさに「一にユーザー・・・」をたゆまなく追求した結果ではないでしょうか。

 さて、神谷正太郎氏が打ち出したこの理念、何かに似ていると思いませんか。
 そう、CAの校訓「一に人物、二に技倆」です。少なからず、CAの校訓の語呂の影響を受けたのではないかと、個人的には思っています。

 高校の頃、担任の先生が授業で、技倆(勉強によって学力や知識を磨くこと)を高めることはもちろん大事だが、人間関係や人としての在り方、つまり人物を第一に考えるという、CAの校訓は非常に奥が深いということをおっしゃっていた気がします。

 トヨタ自動車も、CAも、深い理念が根付いているのです。

※トヨタ自動車のホームページでは、以下のような記載がされています。

故神谷正太郎が、1935年にトヨタ車を販売するに当たってその責任者として打ち出した「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカー」という販売理念、すなわち「トヨタ車の販売によって利益を受ける順序は、まずお客様、次に販売店、そして最後にメーカーという順であるべきで、この姿勢こそ、お客様とトヨタ販売店の信頼を得る最良の手段であり、その事がトヨタに発展をもたらす」という考え方に基づき、販売活動を推進しています。
http://www.toyota.co.jp/jp/environmental_rep/03/torihiki.html より引用
2008/9/15掲載分

19歳、シアトル勤務で岡本藤次郎先輩との出会い

 神谷正太郎氏は、三井物産への入社2年目、アメリカ・シアトル出張所に勤務します。1917年、神谷氏が19歳の時でした。わずか半年の勤務でしたが、このシアトルの地で、偶然にも、10歳先輩の岡本藤次郎氏(21回生)との出会いがあります。
(岡本藤次郎氏は、旧自由ヶ丘校舎の時代CAに岡本記念館を寄贈された方です。現校舎においても、岡本記念室として引き継がれています。)

※以下「明日をみつめて <私の履歴書>」より引用

 振り返ってみると、このわずかなシアトル勤務時代に、わたくしの後生に大きな影響を与える出来事があったのである。岡本藤次郎氏(現豊田通商相談役)の知遇を得たことだ。
 岡本氏は、わたくしを豊田喜一郎氏(元トヨタ自動車工業社長、トヨタ自動車の創始者)に引き合わせる役割を果たしてくれた方で、いわば私とトヨタの仲人である。岡本氏は東洋綿花のシアトル支店に勤務されており、異国の地で同窓を名乗りあう奇遇に恵まれたのである。
 
※以下「小説神谷正太郎 賣る 松山善三」より引用

 神谷は腰をかけると、かかえてきた新聞を開いて読みはじめた。
 「失礼ですが、あなたは日本人ではありませんか」と、呼びかけられて、神谷は隣の台を見た。そこに、長身瀟洒(しょうしゃ)な紳士が、これもきっちりした服装を見せて腰を降ろしていた。
 「はい……」
 神谷は会釈を返した。

 (中略)
 
 この男との出会いが、神谷の将来に福をもたらし、トヨタ自販独立という壮挙につながるのである。
 男は、岡本藤次郎と名のった。東洋綿花の駐在員だが、岡本も単身赴任で無聊(ぶりょう)な日々であった。話し合ってみると同郷、名古屋出身で、しかも偶然は二つも重なって、名古屋商業学校の先輩だという。一緒に昼飯を食って郷里の思い出話でもしようということになった。

 
この岡本藤次郎氏との出会いが、後の人生に大きな影響を与えることになります。
2008/10/13掲載分

世界一の自動車メーカー トヨタ自動車の出現を「予言」した市邨芳樹校長

 第5代の校長市邨芳樹先生は、商業教育の父とも賞賛され、その軌跡や語録が「やぶつばき」という本にまとめられています。
 今から約90年前の1919年(大正8年)、日本が世界に冠たる経済大国になること、そして神谷正太郎氏が幹部として活躍したトヨタ自動車が世界一になることを、あたかも予言していたかのような文章がありましたので、ご紹介します。

※以下「やぶつばき」より引用(一部現代のかなづかいに直しております。)

世界第一

 試みに日本の有する所にして、世界第一の称を冠するを得るべきものもの何々を一考せんか。

 万世一代の皇室、これ世界万邦に比倫なき所にして、我が国第一の誇りたるは言を俟たず。
 富士は古来「三国一」と称せらる。古(いにしえ)の「三国一」と云うは今日の「世界第一」と云うに匹敵す。
 然れども昔日本人が世界を知ること多からざりし時に於て斯(か)く称せしものを、今日世界に押し出して、果して真に「世界第一」の称を辱(はずかし)めざるや否や頗(すこぶ)る疑はし。
 その他瀬戸内海の風光と云い、吉野の桜と云い、「世界第一」と誇るに足るや否や疑いなき能わず。
 仮に富嶽の秀麗、瀬戸内海の明媚、吉野の豊艶を以て「世界第一」なりとするも、何れも皆天の与えるところにして、日本人の力を持って一毫(いちごう)も之に寄与せる所なし。

 人物に於いて学問に於いて芸術に於いて、又産業に於いて今日の日本に「世界第一」たるものを求るに、吾人はその頗(すこぶ)る乏しきを認めざるを得ず。鎖国の昔はいざ知らず、世界大国の間に伍して一等国の名ある我が国として、かくの如きは余りに遺憾ならずや。吾人は我が国人の奮励一番を希(こいねが)わざるを得ず。

 米国人の「世界第一」を好むは人のあまねく知る事実なり。自国の事物を誇るに
The best in the world と云い、The greatest in the worldと云い、殆ど事毎に最上級の系由を用いるをもって、所謂「米人とest」と称せられる滑稽視されるは、一面稚気笑うべきに似たるも、彼らが総ての方面に「世界第一」の理想を抱いて猛進努力するはこれもっとも愛すべきにあらずや。

 日本人は今ただちに世界第一たるを得ずとも、国民理想の高遠とその理想を実現せんとする勤勉努力とにおいて世界第一を得ば、必ずや人物学問芸術産業の諸方面において世界第一たるの日あるや必ずせり。

 「棒程願うて針ほど叶う」とは我が国の俗諺にして「汝の車を星に繋げ(理想は高くてもという意味)」はエマソンの教えなり。時年首(年のはじめ)に際し、一年の計を立つべきの機なり。

 日本国民の中堅を以て自ら任ずる我が同志の諸士、理想を立つる須らく高遠なれ。しかしてその理想を追うて勇猛精進せよ。
 すべからく「世界第一」を標的としてそれ勉めよや。(大正八、一)

 神谷正太郎氏は、おそらくこの教えに大きな影響を受けたのではないかと想像しております。
 90年も前の言葉が今も新鮮に響きます。
2009/5/24掲載分

神谷正太郎氏は「世界大恐慌」をどう乗り越えたか。

  2008年9月のいわゆるリーマンショックによる世界経済の混乱、100年に1度と言われる大不況により、自動車産業は苦境にあえいでいます。 アメリカをはじめ、日本国内でも自動車の生産・販売台数が落ち込み、トヨタ自動車は大幅な赤字に陥りました。 GMを抜き世界一の自動車メーカーとなったトヨタにとって真っ先に迎えた大きな試練と言えます。
 今からさかのぼること約80年前、1929年の世界大恐慌を神谷正太郎氏はどう乗りきったのでしょうか。

 1925年、若干27歳にして神谷氏は、三井物産を退社して、鉄鋼商社「神谷商事」をロンドンで興します。
 入社して6,7年が立ち、仕事の幅も広がりそれなりに面白さを感じていたものの自分の将来がこのままでよいものか疑問にぶつかります。 当時の三井物産は、学歴偏重、派閥尊重の風潮があり、そういう意味での取柄がない、一生下積みのままで良いのかと疑問の念が沸き、自分で世界を切り開いていこうと会社を飛び出したのでした。

 ロンドンに向かう船旅では「三井物産を抜くのも夢ではないぞ」と途方もない夢にくれていました。ロンドンについたとたんに会社はすぐに立ち上がります。会社といっても、社員は神谷氏一人に現地で事務員を一人雇っただけ。  神谷氏はもともと三井物産時代にロンドンに駐在経験があり、当時の人脈を生かして、日本やインドへの鉄鋼の輸出をはじめました。当時は景気が順調だったこともあり会社は順調な滑り出しをします。

 ところが、その後の世界大恐慌の波に呑まれ、イギリスでの炭鉱ストライキなど鉄鋼需要の悪化により、事業はあえなく頓挫してしまいます。初志を貫徹しようと、食事を削ってまでなんとか努力しましたが、事態は悪化するばかり。 彼はあえなく会社をたたみ、日本へ帰る決断をしました。

ロンドンでの経験を通じて彼は次のようなことを語っています。 (明日をみつめて<私の履歴書>より)

 諸々の情勢を判断するに、すべてわれに不利である。ここでつまらぬ意地を張ってみたところで、しょせん大河の流れを針一本で変えられるものでもない。昨日までのことは、きれいさっぱりあきらめて、明日の人生を切り開くべきであろう。
 わたくしは、神谷商事の設立とその失敗を通じて、ひとつの人生観を体得した。
それは、 「過去のことにくよくよせず、大勢を見通した上で、その流れに逆らわず新しい人生を求めよ」という考え方である。つまり、七転八起という日本古来の教えをわたくしなりに解釈したわけだ。
 日本に帰ってどのような人生を切り開いていけるのか、実のところ、全く目途はなかったが、一人ものの身軽さも手伝って、「なんとかなるさ」と楽観しながら、久し振りの船旅を楽しんだ。

城山三郎とCA

2008/1/26掲載分

 108回生の平塚です。
 1996年、私が高校3年生の時、当時の教頭先生から、杉浦英一著「創意に生きる―中京財界史」という本をいただきました。杉浦英一とは城山三郎さんの本名で作家としてデビューする前に唯一本名で出版した本です。明治維新後から昭和までの名古屋経済界の歴史や人物伝がまとめられています。

 私は高校時代、CAの図書室に城山三郎さんの本が集められたコーナーがあり、そこで彼が卒業生であることを知っていましたが、実際に初めて読んだ本が「中京財界史」でした。教頭先生から、城山さん自身もCAの卒業生だが、この本の中に、何人ものCA卒業生が、志を抱いて名古屋経済界の発展に貢献されたたことが紹介されていると聞いて、一生懸命読んで励まされたのを覚えています。ちなみに、この本に登場するCAの卒業生とは、トヨタ自動車の岡本藤次郎氏、神谷正太郎氏、そして加藤商会の加藤勝太郎氏です。

 さて、城山三郎さんはCA時代どのような学生生活を送ってきたのでしょうか。「嬉しうて、そして・・・」(文藝春秋)という自伝エッセー集によれば、年譜に以下のような記述があります。

 1940年(昭和15年・13歳)
 4月 名古屋商業に入学。陸上競技部、滑空部などに入る。軍国主義教育の影響下、杉本五郎著作『大義』などに心酔する。

 1945年(昭和20年・18歳) 
 3月、名古屋商業を卒業。大同製鋼に勤労動員されたままでの卒業だった。父は徴用され軍隊へ。一家は豊明村の別荘に疎開していたが、名古屋市の自宅は夜間空襲で焼失。4月、愛知県立工専に入学するが、徴兵猶予を返上し、5月に海軍特別幹部練習生として志願入隊する。広島県大竹、郷原の部隊を転々とし、原爆の雲を見て終戦を迎える。

 現在の3年制の高等学校とは異なり、戦前の商業学校は、現在の中学1年生から高校2年生に相当する5年制となっていました。城山氏のCAでの生活は、太平洋戦争の真っ只中を過ごしたのです。当時は、CAという名称や校章のロゴマーク自体も、軍部から敵国語を使うことは好ましくないとされ、1943年から終戦までの一時期「名商」に変わっていた時期でもありました。そして、市内各地の工場へ学徒動員されていた時期でもあります。
 彼の学生生活や太平洋戦争時代の体験がのちの作家生活に大きな影響を与えることになりました。

2008/2/11掲載分

東区 二葉館で「気骨の作家、ここに在り 城山三郎展」が開催されています。 

 2008年2月8日から3月23日まで、文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸)にて、「気骨の作家、ここに在り 城山三郎展」が開催されています。

 城山さんは生前、名古屋市に約2万点にも及び蔵書や資料を名古屋市に寄贈したそうです。二葉館は、大正時代に女優、川上貞奴邸として建てられた建物を移築復元したもので、郷土にゆかりの文学資料などを展示した文化施設です。二葉館の書庫には、城山さんの蔵書や資料が保管されており、その一部は二葉館に展示され、一般の人も見ることができるようになっています。

 筆者が訪れた2月10日には、日曜日ということもあって多くの人が訪れ、城山さんの足跡を真剣に見入っていました。「名古屋商業の出身なんだ」と興味深そうにしている方もいました。

 城山さんのCA時代ゆかりの品として、成績表と生徒手帳、学生時代の写真も展示されています。成績も優秀であったことが分かりますが、5年生(当時の商業学校は5年制)には、大同製鋼への勤労動員で全く勉強もできず、空欄になっている事実もわかりました。

 展示室には、城山さんが所蔵していた2万点の本の一部も展示されており、城山さんのメモや付箋が貼ってある本を手にとって読むこともできます。一生懸命資料や本を読んで執筆されている姿が思い浮かびます。

 お時間のある方は、ぜひお出かけください。

東区 二葉館で

文化のみち二葉館 とてもおしゃれな建物です。

文化のみち二葉館

二葉館の一室には、城山三郎氏の書斎を復元したコーナーがあります。

2008/3/8掲載分
 

城山三郎さんと「大義」

城山三郎

CA時代の城山三郎さん
(2007年8月12日放映 NHK教育テレビ「昭和と格闘した作家 城山三郎」より)

 城山さんがCAに入学した1940年(昭和15年)は、日中戦争のさなかであり、太平洋戦争に突入する1年前の日本が軍国主義の道を突き進んでいた時代でした。
 城山さんは、3年生か4年生の頃、杉本五郎陸軍中佐の「大義」という本に出会い心酔します。当時ベストセラーになったこの本は、皇国に生きるための死生観が書かれたもので、学校の友人とも熱心に読みふけり、典型的な皇国少年となり、将来は軍人になることを夢見ていました。

 1945年(昭和20年)3月、勤労動員のままCAを卒業した城山さんは、愛知県立工業専門学校(現在の名古屋工業大学)に進学します。当時は理科系の学校に進学すれば徴兵猶予の制度があり、父親の強い意向であったそうです。
 ところが、城山さんはどうしても軍隊に入りたくて、徴兵猶予をわざわざ返上し、海軍特別幹部練習生に志願入隊します。父親にしてみれば、あまりにびっくり仰天したそうですが、城山さんは「汝、我を見んと要せば尊王に生きよ。尊王精神のある処、常に我在り」と、大義の言葉が頭に染みつき、駆り立てられてしまったのです。

 海軍特別幹部練習生として入隊したものの、それは「大義」が理想としていたものとは程遠い過酷なものでした。
 「早朝から夜ふけまで、バッターという棍棒を振り廻す下士官たちや士官。それも罰すべきものを罰するのでは無く、ただ狂ったように、部下を撲りつけるだけ。(中略)そのきびしさというか凶暴さは他と比べるまでも無かったであろう。(中略)これほど非人間的というか、非常識な訓練や生活を強制していたのは、おそらく世界歴史にもその例がないであろう。」(嬉うて、そして・・・文芸春秋)と当時の様子を証言してしています。

 少年時代の経験から、「大義」は全くの幻想に過ぎなかったと言っています。その経験は小説「大義の末」に纏められています。
 城山さんの作品は、組織と個人の関係性やあり方を描くことを一貫としていますが、その原点は、少年時代の戦争体験が大きいと言われる所以です。

※参考文献 
 「日本人への遺言」城山三郎 高山文彦 講談社
 「嬉うて、そして・・・」城山三郎 文芸春秋

2008/7/6掲載分

 

大学時代にCAの先輩に遭遇

 城山三郎さんは戦争からの復員後、1946年(昭和21年)、東京商科大学(現在の一橋大学)に入学します。そこで、寮の上級生に軍隊出身であることをバカにされたことに腹を立て、入学早々に大学を退学しようと、すでに退学届も書きましたが、偶然にもCA出身の先輩に出会い、止められたというエピソードがあることが分かりました。 「日本人への遺言」(城山三郎 高山文彦 共著、講談社)に以下の記述があります。

城山 僕ら軍隊あがりは「ゾル、ゾル」って言われてね。ドイツ語で兵隊を意味するゾルダーテンからきている。「ゾル。バカだなぁ、おまえはゾルに行ってたんだってな」って。ゾルってあまりいい語感じゃないよね。さんざんバカにされたし、こっちはこっちで「あいつら、戦争にも行かないで」というのがあるしね。
(中略)
高山 入学早々、退学届を出して大学を辞めようとなさったとか。
城山 バカにされたからさ。ゾルだっ、ゾルだって。
高山 上級生からですか。
城山 そう、大学の寮で。
(中略)
 そしたら隣の部屋にたまたま偶然なんだけど、僕の中学の商業学校出身の先輩がいて、その人が駈け出してきて、やめろ、入るのは大変なんだし、そんなことでカッカするなと懇懇と説かれてね。その人が止めなかったら、僕は一橋に入って一日で辞めていたはずだった。
(中略)
 名古屋商業の先輩がたまたま隣にいたからよかった。その人は後に、伊藤忠の副社長になったかな、とても勉強家だった。懇懇と説いてくれて、良かったよ、辞めなくて。

 城山さんの著書では、具体的なお名前は明らかにされていませんが、東京での大学時代にCAの先輩に出会ったという新たなエピソードを知ることができました。

 ちなみに、トヨタ自動車の神谷正太郎さんは、アメリカ・シアトル勤務時代に岡本藤次郎さんに出会ったことが後の人生に大きな影響を与えていますが、城山さんも同様に、CAの先輩に出会ったことが人生の転機になった点は興味深いといえます。
 

2008/7/13掲載分

 

「打たれ強く生きる」(新潮文庫)に、同級生の方が紹介されています。

 「打たれ強く生きる」(新潮文庫)は、1985年(昭和60年)に出版された、城山三郎さんの随筆エッセイ集です。バブル経済が崩壊する前、日本が経済大国として全盛を誇っていた時期ですが、企業社会やビジネスマンの在り方を、著者が日々に接した事柄をもとに、温かい視線で描かれています。
 その中に、CA時代のご友人の方が紹介されています。

F君の土瓶
 
 五十五歳であるわたしの同期生たちは、いま退職や転職の時期に当たり、落ち着かぬ日々、冴えない思いをしていることが多い。(※注1)
 その中で、黄金の日日を送っている友人も居る。F君もその一人。
 彼の生家は、瀬戸で駅弁用の茶瓶などをつくっていた。
 瀬戸から、名古屋南部に在るわたしたちの中学までは片道二時間近くかかる。(※注2)瀬戸からの通学生は、このため、共通して、気の長い、辛抱強いところがあった。
 卒業して、彼は家業を継いだ。
 茶瓶を全国の主な駅に売りに行くのが、仕事である。
 汽車から汽車へ。止まりも夜汽車が多い。
 (中略)
 どこへも気軽に足しげく通い、得意先がふえた。
 やがて、瀬戸物の茶瓶は重いし、回収や処理に困ると見ると、彼はすばやくプラスチック茶瓶の製造へと切りかえた。
 瀬戸の町に生まれ、代々瀬戸物をつくってきたのに、未練もなく、瀬戸物の町の中で、ひとりプラスチック成型をはじめた。
 過去や因襲にとらわれない果敢な転身。
 そこには、全国を旅して回る中で、時代の変化を肌で感じ取っていたことが支えになっていたであろう。
 後を追って、他の同業者たちも、プラスチック茶瓶に進出してきた。資本力や政治力のある業者もあった。
 だが、F君はおそれなかった。
 長い間つみ上げてきた得意先との信頼関係がある。
 それに、こまめに得意先を回って意見を聞いては改良してきたので、何でもない茶瓶だが、その形には自信があった。
 ライバルがふえただけでなく、化学会社からはプラスチック原料を競って売りこんできた。値引きなど好条件のところもあったが、F君は早くから取引していたS社だけから買い続けた。
 そして石油ショック。原料不足となり、同業者たちはお手あげになったが、F君のところへS社は相変わらずの値段で、従前通り原料を供給してくれた。
 おかげで得意先に迷惑もかけずにすんだ。
 もうけた金で、F君は機械化・自動化を進めた。といってクビ切りはしない。退職者の代わりを補充しないという自然な形で、かつて二十人いた従業員がいまは三人。それでいて売上は数倍にふえている。
 いまもF君はにこにこ旅回りを続けている。「不況」とか「不安」といかいう文字は、彼の辞書にはない。

※注1 1982年(昭和57年)頃と考えられます。
※注2 当時のCAは、昭和区広池町(現在の向陽高校)に校舎がありました。

 日本はバブル経済の崩壊により、1990年代から長い不況期に突入し、この十数年で、経済の構造や企業の在り方が大きく変化しましたが、城山さんの本は、企業やビジネスの原点はどうあるべきか、深く、そして分かりやすく示唆を与えてくれています。

・瀬戸物という過去の経験に囚われず、いち早く変化に対応し、プラスチックに切り替えたこと。
・意見を聴いて、商品の改良を進め、商品に絶対的な自信を持ち、競合対策に備えたこと。
・得意先との信頼関係、義理を大事にしていること。
・機械化、自動化を進め、一方で、首を切る形でのリストラは一切せず、思いやりある合理化を進めたこと。

 城山さんの本でご紹介のあった、「F君」は、まさに校風三則にある「商士道を発揮せよ」を実践されている方だと思います。